兄の信康や秀康、弟の忠吉などは、武勇や知略に恵まれた名将と評価されている。事実、信康は武勇に優れ、秀康も豊臣秀吉にその人物を評価され、忠吉も関ヶ原の本戦で島津豊久を討つという武功を挙げている。それに対して秀忠には、武勇や知略での評価は乏しい。ただし、秀忠は2代将軍だったため、後半部分で秀忠は温厚な人物だったと弁護している。しかし、当の徳川氏による史書でさえ、秀忠の武将としての評価は低かった。
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ただし、大坂の陣の後のことであるが、弟義直と共に能を観劇している最中に地震が起こり、周囲がパニックを起こしかけた時に「揺れは激しいが壁や屋根が崩れる兆候はない→下手に動かないほうが安全」と素早く対応を指示して混乱と被害を抑えている。武将としての評価が低いとはいっても、統率力と状況観察力の点では及第点レベルであったと思われる。
公家諸法度、武家諸法度などの法を整備、定着させ、徳川幕府の基礎を固めた為政者としての手腕を、高く評価する意見もある。秀忠に将軍職を譲った後の家康がそうであったように、家光に将軍職を譲った後の秀忠も、大御所として全面的に政務を見ている。海音寺潮五郎は、「家康は全て自分で決めた。秀忠はそれには及ばなかったが半分は自分で決めた。家光は全て重臣任せであった。」と評している。
秀忠は恐妻家であり、正室のお江の方には頭が上がらなかったとされている。気性の荒い妻の影響で側室を持つことが許されなかったという俗説が一般的だが、秀忠はお江の方を愛し敬い、彼女もそれだけの魅力のある女性ではあったようだ。一度だけ江戸城の女中だった静に手を出した際も、正室からの追求を恐れて、静を正式の側室にはしなかった。生まれた子供(保科正之)にも一切面会せず、そのまま保科家に養子に出し、江の存命中は正之を実子として認知することもなかった。